【No.140】砂の女

イリー・K

2013年09月30日 14:14




’64/日本/モノクロ /147分
原作・脚本:安部公房
監督:勅使河原宏
出演:岡田英次 岸田今日子


 アバンギャルドな芸術というのはなかなか理解を得にくいものが常である。認められるまでにも相当な時間を要するだろう。しかしここで注意したいのは「理解を得る」のはイコール「認められる」ではないということだ。主観性が大いに絡んだ分野だから、多様な解釈があってしかるべきであるということを考えると、理解を得られる可能性はほぼ皆無に等しく、現実にいるのは理解しているふりをした専門家や好事家だけであとは「そういうもの」と認識した人たちで形成される。これが認められた状態なのだと思う。誰でも知ってる太陽の塔なんて意味を理解している人なんてほとんどいないだろう。

 芸術に限らず表現する意味においてテレビや映画に目を広げると存在が認められているけどよく考えたら意味がわからないものはいっぱいあるだろう。そう言っときながら志村けんの「変なおじさん」ぐらいしか浮かばなかったけどなんなんだろうかあれは。女性に痴漢行為を働き、悲鳴で駆け寄った周囲の人々からの視線を一身に受け、「ハイサイおじさん」の旋律に乗って脇目も振らず歌い踊る。そして最後に放つ謎のフレーズ「だっふんだ」で割れるガラスのSEとともに周囲の人たちがずっこける。即刻署に連行になるはずの事態をこのような一連の流れで毎回コントが進む。モラルや常識などで計って考えてみると「何だソレは」と言いたくなる不条理性を含んでいるが、いまでは立派な志村の代表作である。まぁ、意味を解明などしたら面白さがなくなるというのはあるんだけれども。

 前衛的な趣向が強いことでつとに有名な作家安倍公房の描き出す世界も「何だソレは」の連続である。「壁」という作品は自分の名前を失った男の話で、一種の記憶喪失ものではなく本当に名前が消えて(名刺や名札の印字が消えたりとか)、わけもわからずそれが罪で裁判にかけられる。その場面でしおりをはさみ、もう半年は経つだろう。その前に何とか読み切った「砂の女」は昆虫採集で砂丘の村に訪れた男が穴の底に埋まった家に閉じ込められそこに住む女との同居を余儀なくされる。そんな話を64(昭和39)年に実写映画にまでなっている。活字でわけがわからないものを映像にするんだからよほどの困難を極めたであろうこの映画版を観てみた。

 案の定、冒頭からはよくわからない世界が広がっている。昆虫採集から最終便のバスに乗り遅れ途方に暮れた男が宿を探していたところを村民に案内され、ハシゴをつたって家がある穴の中に降りる。しかし、家の中から出てきた女が岸田今日子ときた。この瞬間それまでに抱いた違和感は消失し、一気に「そういうもの」だと納得するまでに押し切ってしまう。岸田今日子は理解しづらい芸術やその他諸々の表現を易々と成立させることのできる女神なのか。

 こうして男と女の共同生活が始まるが閉鎖されたこの空間で延々とこれが続くと信じられないことに一度や二度のセックスをやってしまうのである。岸田今日子なのに。これにはそれを誘発するシチュエーションがあって、雪かきならぬ砂かきやその他の肉体労働に励んで肌をつたう汗、そして常に砂が漏れる家の中で夜は着衣では厄介になるので全裸で寝る。そんな毎日を過ごしていると異性の好みなど「オス」という絶対的な生物本能の前ではどうでもよくなってくるのだろう。で、暗闇に浮かび上がる岸田今日子の裸体がモノクロの色調と相まってこれがけっこうなまめかしいのである。そんな「オッ」となってしまった私も含め、根源的な人間の姿を見た思いだ。

 そういえばこないだのラジオで聴いたんだが、志村けんにとっての性の目覚めは本作で砂まみれで全裸で横たわる岸田今日子だった。AVやポルノどころか、女性の水着写真さえも貴重であったと言う今から考えたらウソのような時代、志村少年が初めて見た「動く女体」だったという。バカ殿の「女体神経衰弱」などを生んだ志村の性意識の源流には一糸まとわぬ岸田今日子の姿があったのだ。おそるべし。



評価は…
☆ おもしろい ○まあまあ △つまらない ×クズ
の4段階評価です。

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