【No.160】アクト・オブ・キリング

イリー・K

2014年11月03日 15:38


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’12/イギリス・デンマーク・ノルウェー/121分/カラー
監督:ジョシュア・オッペンハイマー クリスティーヌ・シン
 「一人の人間を殺したら殺人者だが、百万人を殺したら英雄だ。」かのチャップリンの映画『殺人狂時代』での有名なセリフがある。『アクト・オブ・キリング』を観ている間ずっとそのセリフが頭から離れなかった。そりゃ人を殺したら立派な犯罪者になるがそれは一般生活の範囲内でのこと。膨大な数の人間を殺して“英雄”になれる状況は戦争などの非常時や政変などで優位な立場にいる人間に限られる。「戦争の世紀」ともいわれた20世紀を振り返ってもわかるように、大雑把な見方をすりゃ大抵の国の首脳は“英雄”の遠い遠い後任者だ。国家元首たる権力者は直接関与していないにしろ、バトンタッチしてきたその元を辿れば多くの犠牲の上で権力を手中に納めた祖にたどり着く。だから「膨大な数の人間を殺しても罪を問われない世界」というのは遠い昔、我々の何世代も前の「史実」と言い換えてもいい時代の話で、21世紀を迎えた現代ではありえないものだとばかり思っていた。しかし、それは『アクト・オブ・キリング』の存在を知ることによって大きく覆されることになる。

 現代にもいる“英雄”は東アジアに位置するインドネシアにいた。1965年に軍事クーデターの失敗を発端に、首謀者は共産主義者であるとして反共の嵐が巻き起こり、共産主義には協力的だった当時のスカルノ政権は大打撃を受けた末に失脚。その後成立した軍事政権の指導のもと共産主義者の大虐殺が始まり、事実確認の余地なく殺され100万人以上の犠牲者を出す結果となる。本作は現代も同じ政治体制が続くインドネシアで暮らす“英雄”たちが登場するドキュメンタリーである。

 こんなことがあったとは己の無知には我ながら呆れ返るばかりだが、 現代にもいる“英雄”がおいそれと映画に顔を出すことってあるのか?周辺人物のインタビューだけでつなげたんじゃないのか?映画の存在は知っても実際の映像を見るまではまだ疑っている自分がいた。だが、映画は確かに殺したと証言している。語るのは本作の中心人物として登場するアンワル氏。少々“英雄”と異なるのは国家元首のように命令や意思表示などによって臣下や手下が殺めるのではなく直接手を下す。千人近くの人間を本当に殺している点である。そのときの状況を自ら進んで語り実演までしてみせる。完全にルーチンであったことが窺える。多くの人間の望まない死を見てきたその目からは後ろめたさとか後悔の念はみじんも感じられない。嬉々とした表情をしており気分転換で口ずさんだという歌を謳いながら踊るステップのなんとまぁ軽やかなこと。

 作り手の人間ではない私が言うのもなんだが、これほどドキュメンタリーにおいて、ひいては映画が持ち得る表現の未知なる可能性を感じさせる作品ってあっただろうか。カメラの前に殺人者がいるという現実。それだけでも作品として成立するがすごいのは彼らにそのときの殺人を演じさせて再現映画にしようと持ちかけることだ。インタビュー時のノリをそのままにやる気満々で映画制作に臨むアンワル氏とその仲間たち。しかし劇映画といえど、演じているのは所詮素人。何とも言えない滑稽さがつきまとうが彼らは実に楽しそうである。
一体彼らはどう見られたいんだろうか。“英雄”という甘美な響きに酔いしれているだけで非人道的行為を遂行した過去は変わらない。国境を越えただけで見られ方が180度変わるというのに。いや、国内でも「そりゃそうだけど・・・」と首を傾げる者はいるだろう。井の中の蛙状態の彼らを監督のオッペンハイマーは泳ぎに泳がせる。

 他でも多く見かけたような作品の取り上げ方をここでもやってしまっているわけだが、ここからは作品が作品だけに不謹慎であることを承知の上で書いておきたい。扱う素材がどれも凄すぎて感じていないのか、それとも私だけがそう感じるのかわからないが、自然発生であるにしろ故意に設定したにしろ、ある特殊な環境や設定に置かれている人間がその場にいることによって内面的に変化をもたらしていくさまを映し出す構造を持っている点でいえば、本作はある意味どっきりカメラであるといえまいか。アンワル氏も再現映画のなかで加害者もしくは被害者も演ってみたりするが、そのうち最初の嬉々とした表情が薄れ次第に違う顔になっていく。そうして迎えるエンディング、プラカードを持った野呂圭介的な役割を負った人物が登場する(いわゆるネタばらし)ことはもちろんないが、我々に見せる思いもかけない姿はそれにあたる“何か”に気づいた瞬間とも見える。


評価は…
☆ おもしろい ○まあまあ △つまらない ×クズ
の4段階評価です。

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