【No.068】腑抜けども、悲しみの愛を見せろ
●10月5日鑑賞
’07/日本/カラー/112分
監督:吉田大八
原作:本谷有希子
出演:佐藤江梨子、佐津川愛美、永作博美、永瀬正敏 他
世の中に完璧なものなんてそうあるものではない。果たして完璧なものはあるのかと今考えてみたところ、これがなかなか浮かばない。それもそのはず、この原稿書いてるの夜中3時過ぎだからね。よしんばそれがあるとしても我々にとって想定不可能な不測の事態に陥っていないだけで、たまたまうまく機能しているだけなのかもしれない。逆にありとあらゆるものが完璧だったら、世の中は動かないだろう。
ここまで書いて何だか壮大な話になってきているが、今回の話の焦点は「佐藤江梨子の鼻」である。
話を戻して完璧な人間なんていうものもいないわけで、人はみな何がしか欠落した部分を持っている。そして完璧な人間になろうとしても、それはあくまでより限りなく完璧に近づいただけで、完璧そのものにはなり得ないのである。しかし、欠落しているからこそ人間らしいという見方もあるわけで、それゆえの深み、味わいが出てくるものである。が、なかにはこの欠落した部分ひとつだけでマイナスに転じ、「深み」や「味わい」などの範疇を通り越してなにもかもが崩壊してしまうような不幸に陥る場合がある。佐藤江梨子の鼻を見るたび、そんなことを思うのだ。
グラビアアイドルとして我々の前に姿を現した佐藤江梨子を初めて目にしたときは衝撃的であった。それまでにはほとんどいなかった身長170cm以上の長身で均整がとれた欧米人並みのスタイル、ぷっくりと膨らんだ唇に誘惑的な瞳とここまでは申し分ないのだが、この非の打ち所がない構成要素すべてに逆らうかのように鼻が上を向いていた。そのブサイクなまでの上向きっぷりは他のプラス面を圧倒し、全体を一気にマイナスに引き下げ、私のなかに嫌悪感を植え付けた。鼻のかたちひとつで彼女の魅力すべてぶちこわし。神はなんという気まぐれないたずらをされたのだろう。そんな思いが頭をかすめるほど哀れにすら見えた。以来彼女がテレビのブラウン管に登場するたび、憎しみ半分、哀れみ半分でリモコンに手を伸ばしたものである。
それから数年、佐藤江梨子は「サトエリ」などと呼ばれるようになり、そして女優になった。活動めざましい彼女は今日の作品『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』で主演を張っている。
両親の事故死をきっかけに女優活動をしていた東京から田舎へ帰ってきたサトエリ演じる澄伽。そこで残された妹と兄夫婦との共同生活が始まるが、それまで底にわだかまりなどがありながらも均衡を保っていたこの家族に、傲慢かつエゴの塊である澄伽が参入したことで崩壊への一途をたどっていく。
この澄伽という役回り。「崩壊させる」という意味では佐藤江梨子の鼻にそっくりではないのか。
劇中での彼女は自身の鼻の威力と同様、観ているこちらの眉間にシワを寄せさせるほどトバしまくり、家族に猛威をふるっていた。そして熱演するその姿は、この鼻を持ってこの世に生を受けてしまったことへの不憫さを身をもって体現しているようにも見えた。
本作の主演を彼女に抜擢した理由のひとつは、鼻と内容の因果関係も絡んでいるのでは。これは私の単なるこじつけだが真相はいかに。
ボン評価は…
☆ おもしろい ○まあまあ △つまらない ×クズ
の4段階評価です。
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