てぃーだブログ › 激烈シネマニアン! › 【た】 › 【No.129】旅立ちの島唄〜十五の春〜

2013年05月10日

【No.129】旅立ちの島唄〜十五の春〜

【No.129】旅立ちの島唄〜十五の春〜
↑イラストをクリックすると本作のサイトへジャンプします。

’12/日本/カラー/114分
監督・脚本:吉田康弘
出演:三吉彩花 大竹しのぶ 小林薫 早織 立石涼子 

 ゴールデンウィーク、あるドキュメンタリー映画を観たくて桜坂劇場に赴いたんだが、その日はあいにく上映はお休み。何たる事だと頭を抱えてた所に当劇場のSさんに薦められた(半ば強制的に、というのもある)のがこの映画である。高校が無い南大東島から高校入学を期に島を出るまでの一年間が描かれる島唄とともに生きる少女の成長譚。ノーマークと言うほどでもなかったが、題材からして観て悪いということはないだろうし、監督が井筒和幸のもとで助監督を務めてた人だからまぁ間違いないだろうと、何とはなしに観てみたのである。

 いやぁ、何と清々しい映画なんだろうか。あんまり清々しいんで当初観る予定が『セックスの向こう側 AV男優という生き方』だったのが申し訳なくなったくらいだ。とにかく冒頭の先輩が先に旅立つ港のシーンだけでちょっと涙腺が緩んでヤバかった。私だけなのかわからんが、あのゴンドラに吊られて船に運ばれる少年少女の画というのはキュッと胸を締め付けてくれる何かがあるな。日本にまだあんな光景があったのかという驚きもあるし。

 パンフレット等の資料を読んでないんで判別しかねるが、本作が本土の映画会社や企業などが出資するような本土発信型の沖縄映画だとしたら我々県内の人間が毎度ながら懸念してしまうのは、「沖縄(及びその周辺の島々)」がイメージ先行型の解釈のみで描かれないかという点である。本土の人が抱き続ける「家はどこもシーサーが乗っかってる」「家から出れば3分で海」みたいなイメージ。今じゃあさすがにそこまでヒドくはないにしろ、映画だけに限らず、ドラマなどでも淡い期待を胸に見ては辛酸を舐め拳を握ってきたものである。「何でも語尾に“さぁ”なんか付けねぇよ」と。その点、この映画は難なくそれをクリアしリアルまでは行かないが、違和感のないものになっている。

 映画が映し出す島民の生活や恒例行事、その他諸々に至るまで“島の表情”はどれも自然だ。「ああ、実際にそういう生活してるんだろうなぁ」ってな感慨に耽るという意味での自然。紀行番組を見ているようである。私は南大東島についてはほとんど知らないが、港の風景なんかは私の地元の小浜島や西表島と同じ匂いがした。あと、「本島には何でも揃っている」という島民ならではの憧憬を表す主人公と本島に住む姉の会話も自然である。

 前出の懸念と並ぶものといえば、ハイ出ました。県出身ではない本土の俳優が喋るセリフ、いわゆる「なんちゃって方言問題」である。これにも悪夢を見た方は多いはず。『てぃだかんかん』なんて「どこの島の方ですか?」と問いたくなるようなファンタジーの域であった。本作では小林薫と大竹しのぶがキャスティングされているんだが、これまた違和感が無い。純粋な方言ではなく標準語に訛りが加わったタイプ。小林薫は『ウンタマギルー』の実績があるから納得だが、大竹しのぶはどうなんだと思ったら、まあまあ辛うじて合格の範囲内であろう。ネイティブ並みのうまさではないが、無理に合わせて力んでおかしな方向にはせず、イントネーションが合ってて観てるこちらにも力まず、自然と耳に入ってくる感じ。

 違和感の無さについてはすべてが申し分の無い作品かというとそうでもない。ここは敢えて言うと主演の三吉彩花、あまりにルックスが良すぎて島民に混じっていると浮いてしまっている。どちらかというと親友役のような子ならいっぱいいるんだろうけど。しかし、この主演の存在が映画全体を支配する清々しさに最も貢献しているのは言うまでもない。映画が掲げるテーマとぴったり合致して絵になっちゃうのである。小っちゃい子供たちと手を繋いで登校したり、仲間に背中を押されて意中の人に接近したり、その合間に島唄の練習で三線をつまびいたりと、あんなもんに演られたら私みたいなうるさ方でもひれ伏すってなもんだ。それらを経て最後にステージで披露する別れの島唄には「ハハァ〜っ」である。島民に扮するギャップをも覆す存在感、キャスティングの妙が冴えまくった映画である。
【No.129】旅立ちの島唄〜十五の春〜
評価は…
☆ おもしろい ○まあまあ △つまらない ×クズ
の4段階評価です。


Posted by イリー・K at 03:52│Comments(0)【た】
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。