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2012年09月11日

【No.120】青春の殺人者

【No.120】青春の殺人者

’76/日本/カラー /132分
監督:長谷川和彦
出演:水谷豊 原田美枝子 内田良平 市原悦子 桃井かおり 地井武男


 群雄割拠渦巻く映画界、映画監督たちは独自に磨きあげた作風でしのぎを削る中、後世に語り継がれるような大傑作を生み、以降何作も発表し続ける監督がいれば、芳しい評価など全く得られずたった1作や2作ではかなく散っていく監督もいる。しかし、長谷川和彦という人はたった2作品を撮ったあと30年以上のブランクを経ても次回作が待ち望まれている希有な監督である。それだけ待ち望まれているのはどちらも名作と呼ばれている作品を撮っているわけで、ひとつはジュリー主演の『太陽を盗んだ男』、そしてもうひとつは今日紹介するデビュー作『青春の殺人者』である。

 衝動的に両親を殺した青年(水谷豊)の逃避行を描いたこの映画が名作とされているのはまず何より「両親を殺す」という内容だろう。金属バットで殺した実際の事件で世間が騒然ととなったその4年前に製作されているのだから計り知れないほどのセンセーショナルだったのだろう。素通りする人なら誰でも一度は目に止まったにちがいない。

 それともうひとつは“時代にマッチした”という側面もあったと思う。製作された76年頃は、ベトナム反戦などが発火点となって四畳半フォークの興隆などに代表される既存の価値観に捕われない「アンチ」な生き方が若者の間でもてはやされた。平たくいえば「歯向かうことはカッコいいこと」が崇められた流れがいったんは終息しつつも、まだ残り香があった時代である。カッコいいとされる「歯向かう」その矛先には社会なり政府なり組織なりいろいろあるが、最も身近にあるものは両親である。心底嫌ったり怨んだりまではしないが(人によってはまちまちだけど)、何かとうっとおしい存在。両親との確執が盛り込まれた映画は多くあったが、それがとうとう映画の中で殺してしまうのである。しかもほんの些細な理由で。もう信じるものは無く、それでも生に対するエネルギーを持ってただ無軌道に突っ走る。青年が体現する行き着くところまで行き着いた若者像が当時の若者を中心とした観客に響きに響いたのだろう。それが一種のヒロイズムとなって今でも語り継がれている。

 まるで知っているかのような口ぶりで述べてきたが、当時はまだ産まれていないこの私、すべて想像である。しかし、そんな浅はかな想像を抜きにしても、この映画は名作と呼ばれるにふさわしい。それだけの作品に仕立て上げられたのは決して長谷川監督の力量だけでは実現できなかったと思う。

 この映画が名作たりうる所以は冒頭30分の強烈さに集約されている。そこで叩き付けられる衝撃度のおかげで残りの約90分は持ったようなものだ。ではその強烈さの源とは何か。

 デビュー間もない頃で、卓越した演技力が芽生える前にすでに肢体の自己主張が尋常ではない原田美枝子か。まだ青さが残ったルックスで生尻を披露する水谷豊か。いや、まだまだ若造だったこの2人にこの人の足下には到底およばない。ベテランの市原悦子である。いつも派遣先でのぞき見してるただのオバさんだとバカにしてはいけない。私もその一人だったが、本作で市原悦子という女優の見方を新たにした。

 この30分の中で起こるのは最大の見せ場である両親の殺害である。母親役の市原がそこで死ぬのだが、昨今の出演作、いや全キャリアでの出演作を通しても多分見られないであろう市原の姿を目にする。どちらかというとおっとりした「静」のイメージが強いが、あれだけ激情に駆られた「動」な姿は見たことが無い。そりゃ殺されるんだからジタバタしてても不思議ではないのだが、イメージのギャップというのもあってその凄まじさたるや鳥肌ものである。そして息絶えるまでの死に様、映画史上に残る名演といっても差し支えないだろう。『太陽にほえろ』の松田優作に匹敵するほどの死にっぷりだ。

 市原悦子劇場な30分のあと、青年が辿る逃避行の中でシーン毎に激情の市原がフラッシュバックし深みを与える。まさにこれは市原悦子あってこその映画といってもいい。

【No.120】青春の殺人者
評価は…
☆ おもしろい ○まあまあ △つまらない ×クズ
の4段階評価です。


Posted by イリー・K at 15:13│Comments(0)【せ】
 
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