【No.131】レッド・ライト

イリー・K

2013年05月31日 03:46


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’12/アメリカ/カラー /113分
監督・脚本:ロドリゴ・コルテス
出演:キリアン・マーフィー シガーニー・ウィーバー ロバート・デ・ニーロ

 デ・ニーロが超能力者役と聞くと、心の中がちょっとざわつく人は少なくないはず。さすがに70近い年齢なんで昔ほど無茶はしなくなったが、その無茶がある種の神格化に近いような立ち位置にまで押し上げた名優である。期待しないわけにはいかないだろう。

 新感覚スリラー(と謳っている)『レッド・ライト』は、この世に存在する様々な超常現象を科学的根拠に基づいて解明してきた大学教授(シガーニー・ウィーバー)とその助手(キリアン・マーフィー)が30年ぶり公に姿を現したデ・ニーロ演じる「伝説の超能力者」のイカサマを暴くといった内容。

 観た直後の感想は「悪くないかな」という印象だった。期待するに値する要素は充分なはずなのに、なぜそれほど乗れなかったのか後になって考えてみるといかんともしがたい腹立たしさがこみ上げてきた。

 この映画が持つひとつの特徴を述べると「過剰」である。まず、今どき珍しいあざといほどのこけ脅し演出が過剰である。教授と助手が発生地となる片田舎の民家へ出向く最初の場面。家の主はポルターガイスト現象が起こると訴える。と、ここで突如物音を入れて客を脅かす手口に出るのである。「ドンっ」「ガシャンっ」と何も映さないところで物が落ちたり壊れたりする。まぁそういう現象なんだから当然なんだけれども、このあとも所々でこの手が使われる。そしてまんまと引っ掛かってしまう自分。なんでこんなチャチい手に乗らなぁならんのだと体がびくつく度にイライラしてしまう。それであのオチだろう。いや、実ははっきりとオチをキャッチしきれていないぼんやり程度なんだが、要するにあれだろ、この映画が掲げる真意は超能力だとかそういうことではなくて普遍的なメッセージを込めたかったわけだろう。そういうオチにするのは別にいいんだけどさ、そこに辿り着くまで苦行を強いられたのかと思うとどうでもよくなってくる。この手のスリラー映画ってひとつの謎を提示して最後のオチに向かって演出なり伏線が張り巡らされるわけで、そのオチが一発勝負であり、観客がどう受け止めるかで快感かはたまた不快に変わるかの分かれ道となるが、私はもちろん後者である。

 過剰でいえば映画の中での「超能力者」の扱われ方である。「伝説の超能力者」ことデ・ニーロは盲目で黒を基調とした衣裳に身にまといオカルトチックな雰囲気を演出。“芸風”はなんでもござれで、スプーン曲げはもちろんのこと、テレパシーや念写、更には病気を患った人間の患部を自らの手で直に“除去”することまでやってのける。聖人と見紛うほどの芸風である。そんな彼をイカサマと糾弾したジャーナリストが突然死し疑惑の目を向けられたまま一度姿を消し30年ぶりに復帰する。死者が出るほどのセンセーショナルを巻き起こした超能力者に世間の関心は集まる。この関心がちょっと日本では考えられないものでメディアというメディアがこぞって彼を取り上げ、これは一大事といわんばかりに報道のトップニュースのレベルで扱うのである。

 超能力者はどんなに我が目を疑うような芸をしたところで、どうしても「怪しい」とか「うさんくさい」という視線が付きまとってしまうのが常である。世間の注目が集まるのはわかるとしても、メディアで扱われるのはせいぜいワイドショーのレベルではないのか。アメリカにワイドショーがあるのかは知らないが、新聞でいえばニューヨークタイムスよりサン(これはイギリスだけど)などのタブロイド紙レベル。そんな人はトークショーなんかには出れないと思うんだけど。

 映画の特徴をよくわかってのことなのか、日本の映画会社が謳った宣伝もこれまた過剰である。予告編のはじめに「こう思ってるでしょう?実はこーなんですねぇ〜(ドヤ顔)」なアニメーションを挿入するいう「そこら辺のスリラー映画とはひと味違いますよ」なアピール、そしてチラシに「映画の謎を解くためのキーワード」や、知性をアピールしたいのかメンサ(高IQの持ち主のみが所属する世界的な非営利団体)の問題まで載っている。ポスターにデカデカと載った「この男を疑い続けろ。」のコピー。デ・ニーロ疑う前にまず宣伝を疑うべきであった。

評価は…
☆ おもしろい ○まあまあ △つまらない ×クズ
の4段階評価です。

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